#05.店主/コーヒー半分の秘密、そして

「はい、お待たせしました」
 優しげな女性の声で、秋良はハッとした。つい一ヶ月前のことを思い出すことに没頭していたようだ。少し俯いていた顔を上げると、カウンターを挟んだ反対側で緩い三つ編みを垂らした女性が、秋良と蛍の前にコーヒーのカップを置いているところだった。どうやらこの女性が店主らしい。
「ありがと、花さん」
「どう致しまして」
 蛍は礼を言うと、湯気を立てているコーヒーに角砂糖を一片入れた。そしてゆっくりとマドラーで混ぜる。華奢な指とマドラーとが、僅かな光を受けて光って見えた。
 先程の蛍の素振りからみるに、彼女は常連の客であるらしい。コーヒーの香り満ちるこの店にいる時、蛍がかなりリラックスしていることは秋良でも分かった。
「で、こっちが噂の秋良君かぁ…」
 店主は、また考え事をしている秋良を見て、にこりと笑った。
「私、花村美和(はなむら/みわ)って言います。ここ喫茶『風待ち人』のオーナーです。どうぞ宜しくね」
 秋良に向かってふんわりとした笑みを向ける花村。秋良は少し戸惑ったが、
「片瀬、秋良……です。こちらこそ宜しくお願いします」
 とぎこちない言葉で返した。
「きゃー、やっぱり初々しくて可愛い。蛍ちゃんの言ってた通り」
「っ!」
「へ?」
 両頬に手を当てながら身体をくねらせた花村の言葉に、蛍は口にしかけていたコーヒーを危うく噴き出してしまうところだった。しかし、それは免れたもののやはり変なところに入ってしまったのか、数回咳を繰り返していた。
「っ……。ちょっと、変なこと言わないでよ……」
 少し掠れた声で蛍が言った。何度もせき込んだせいかその瞳は微かに潤んでいる。
「えー、だって蛍ちゃん言ってたじゃなーい」
「言ってない」
 花村は『言ってたもん』と軽く頬を膨らませてみせた。最初見た時は大人びた女性という印象を受けたが、花村には案外感情豊かで子どもっぽいところもあるのかもしれない。
 そんな花村に対して、素っ気ない返事を返すのは蛍。咳が収まると、先程は飲み損ねたコーヒーに口を付けていた。
「蛍ちゃんったら酷い……。一つ屋根の下に住む家族なのに……ううっ」
「はいはい」
 両手で顔を覆う――いっそ清々しいほどわざとらしい花村の様子に、蛍は適当に応えつつ、サービスで付けてくれたらしいクッキーを口に放り込んだ。このようやり取りは日常茶飯事なのか。いや、それよりも。
「家族……」
 家庭の事情、というやつなのだろうが、秋良は無意識にその言葉を繰り返してしまった。口に出してから気付き、慌てて誤魔化す。
「あっ、いえ……何でもないです」
「あはは、別に気にすることじゃないよー」
 目に見えて焦っている秋良を見て、蛍は笑いながら肩を叩く。
「あたしが高校に入る少し前に、両親が知り合いだった花さんにあたしを押し付けてどっか行っちゃったってだけだしね」
「!」
 蛍と出会って一ヶ月以上も経つのに、それは秋良にとって初耳だった。
 明るくて頼りになる蛍。秋彼女が家族に恵まれた家庭に生まれたものだと思い込んでいただけに、その事実は衝撃的だった。
 秋良がどう返すべきか考えていると、
「あーら、蛍ちゃんがこのことを他の人に話すなんてね」
 少し驚いたように花村が言った。
「別に?隠すことじゃないじゃない。あたしの友達、何人かこのこと知ってるよ」
 しかし、蛍は別に変わった様子もなく、コーヒーを飲み干した。
「そこはさぁ、こっそり好きな男の子だけに話して、それにかこつけて優しくしてもらうとか……」
 空になったカップにコーヒーを注ぎながら、ため息混じりに花村が言う。話好きの店主はどうしてもそういう方向に持っていきたいらしい。
「あたしは別に優しくして貰いたいわけじゃないの。秋良、あんた分かってるよね?」
 突然秋良の方を向いた蛍が尋ねた。予期していなかった振りに秋良はどもりつつ答えた。
「え、あ、はい」
「その友達にも言ったけど、このこと知ったからって、あたしに遠慮なんかいらないからね!」
「……はい」
 強く言った後、コーヒーカップを置いた蛍。秋良は小さく返事をした。
「……あたしに遠慮なんかいらないから」
 その様子を見ていた花村が少し声のトーンを落として蛍の言葉を繰り返した。少し伏せた目は憂いを帯びて、長い睫毛が頬に影を写した。
 しかしその直後そのシリアスさが嘘のように表情が変わった。
「なんて蛍ちゃん、男前!」
「!」
「なっ……!そんな風に言ってないでしょ!」
「えー?そうだっけ?」
 途端に真っ赤な顔になった蛍。秋良はぎょっとして、つまんだ角砂糖を取り落としそうになった。
 とぼける花村に蛍は咳払いをした後、無理矢理話題を変えた。
「…て、ていうか、そもそもそれをあたしがやったら皆引かない?」
 秋良も角砂糖を入れ、軽く混ぜた後に口を付ける。淹れられてから少し経っているせいか、コーヒーの温度が丁度良い。
「んー……確かに引いちゃうわね」
 秋良の斜向かいで、少し悩むように眉間に皺を寄せていた花村だったが、『家庭の事情にかこつけて、男の子に優しくしてもらおうとする蛍』を想像してしまったのか、笑い混じりに応えた。
「でしょ」
「あの……」
 二人が顔を見合わせて笑っている横で、秋良は少しばつが悪そうに何かを言いかけたが、突然その開いた口に渇いたものが突っ込まれた。一瞬何か分からなかったが、口の中でほろりと崩れ、優しい甘みのあるそれは、先程蛍が食べていたクッキーだった。
「ま、なんだかんだと花さんが良くしてくれるから、あたしは今の生活に満足してるし、問題ないよ。勿論両親が戻ってきたら、きっちりケジメは付けてもらうけどね。……何てったって一人娘を残していなくなったんだからさ」
 笑いながら話す蛍だったが、最後の方は泣いているようにも見えて、秋良は動揺した。蛍のこんな表情(かお)など、初めて見たのだから。
「そう、なんですか……」
 そんな動揺もあって、クッキーを何とか飲み込んだ秋良の返事はぎこちない。蛍もそのまま顔を伏せて黙ったままだ。彼女の視線の先で、カップに入った液体が微かに揺れた。
「そんな暗い顔しなーいの。ほら、コーヒーが冷めちゃう」
 二人の様子に、黙ったまま二人を見守っていた花村が口を開いた。その表情は柔かく、蛍を本当に気遣っているのだと感じた。二年もの間蛍を支えてきた彼女だからこそ見せられる表情なのだろう。
「うん、ごめんね」
「いーえ。ほら、秋良君も飲んでみてよ、うちの自慢のコーヒー」
 少しだけ和らいだ表情を見せた蛍に、満面の笑みで応える花村。
「……いただきます」
 静かにカップを傾ける。カップから伝わる温度が心地良い。
 カップを置いた時、花村の視線をふと感じてそちらへと視線を向けた。
「どう?」
 どきどきわくわく、というような軽く死語めいた擬音語が似合いそうな様子の花村が尋ねる。
「……美味しいです」
 どこか暖かい、ふんわりとしたものに包まれるような感覚、とでも言うのだろうか。既に口にはしてしまったものの、ただ美味しいという言葉ではもったいない程のコーヒーだった。先程までの動揺はすっかり溶けてしまったかのように消え去っていた。
 そのように――勿論後半の内容は伏せて――花村に話すと、彼女の表情が今まで以上に明るくなる。
「でしょ。花さんの淹れるコーヒーって、最高に美味しいんだよね。同じようにしてもあたしは敵わない」
 少し悔しそうにカップを揺らす。カップの中で既に半分ほどになった黒い液体が、僅かに音を立てた。
「とーぜんよ。うちのコーヒーの半分は私の愛情で出来てるんですものっ」
 星を飛ばすような勢いのウィンクと、どこかで聞いたことのある謳い文句でおどけてみせる花村。
 と、その時。
 カランカランと軽やかなベルの音をさせて店のドアが開いた。
 ふと窓の外を見ると、いつの間にか外は暗くなっている。随分長い時間をここで過ごしてしまったようだ。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
 接客モードになった花村がにこやかに尋ねる。
「んー……ここのオススメは?」
「え……?」
 入り口からゆっくりと歩いてきた青年は、花村に聞き返した。
 その声は、まさか。
 秋良はゆっくりと声の主を振り返った。
「当店のオススメはオリジナルブレンドのコーヒーになります」
「じゃ、それお願いします」
「かしこまりました」
 花村がコーヒーの準備をしようと、一旦店の奥に引っ込んだ後、青年は再び口を開いた。今度は秋良の方を向いてその名を呼ぶ。
「久しぶりだね、秋良」
 にっこりと爽やかな笑みを向けられたのに、秋良の中を走り抜けたのは冷たい戦慄。
 何で、ここに。もう、関係ない、筈なのに。
「弥尋……!」
 喪服のような黒いスーツに身を包んだ彼は、ぞっとするほど綺麗に微笑んでいた。

back next






花さん若いね。34歳設定なのですが。
でやっと弥尋が登場。
秋良の過去を知る彼が、秋良の前に現れた理由とは…
【2010/10/31】up (C)香山湊