君はまだ覚えているんだろうか。
夕暮れの街でぼんやりと自転車を走らせながら、僕はあの春の昼下がりを思い出していた。




君―彼女とは小、中と通う学校が同じだっただけで、何か特別仲が良かったというわけではない。だけど何となく気になる存在でもあった。
他の女子のなかで際立って可愛いとか、きっと目に見えるものではない気がする。
もし言葉にするなら雰囲気、だろうか。彼女の周りの女子とは何か違う感じだった。
彼女は、野球部のマネージャーをしていた。一部の女子が一つ上の野球部の先輩に憧れてマネージャーになったのだ、と密かに噂されていたのを覚えている。
それが本当かは知らないが、彼女はマネージャーとしての仕事を一生懸命やっていたようだった。帰宅部の僕が放課後、図書室の窓からグラウンドを見下ろすと、野球部の部室となっているプレハブ小屋の近くで、彼女が部員の世話やら何やらでせわしなく動き回っているのがよく見えた。

そのあと…そう、噂になっていた野球部の先輩が卒業した日だ。その時は僕ら2年生も卒業式には参加することになっていた。
特に先輩達と繋がりのなかった僕にとって、卒業式など面倒な行事でしかない。校長やPTA会長の挨拶、卒業証書の授与…と僕は欠伸を噛み殺しながら、何とか眠気を堪えていた。
僕の二列前の彼女は凛と背筋を伸ばしたまま。ポニーテールに纏めた髪も揺らさずに、まっすぐ前だけを見ていた。
授与が三分の二くらい過ぎた頃だろうか。あの先輩の名前が呼ばれた。彼女はさっきまでと同じように前を見たまま微塵も動かなかった。
やはり噂だったのか。と何故か僕は胸をなで下ろす。そんな僕自身に気付いて、一度だけ心臓がどきりと大きく音を立てた。
ようやく退屈な卒業生代表の答辞も卒業生による合唱も終わり、卒業生が在校生や先生達の拍手で送られて退場していく。
フェードアウトしていくBGMと共に最後の卒業生が退場した。しばらくすると来賓客へのアナウンスが入り、来賓客も退場していく。
在校生の退場は一番最後。明日は午前中の授業を潰して式の会場となった体育館を片付けるのだそうで、その日はそのまま解散となった。けれど、この後の予定が特になかった僕は、学校の中庭で少し本を読むことにした。

中庭では一足早くサクラが咲いていた。
ここは僕が時々本を読みに来る場所だ。なかなか過ごしやすいのに、他の生徒は殆どと言って良い程来ない。敷地の奥まったところにあるせいなのかもしれない。
中庭を歩きながら、満開のサクラを見上げる。卒業式というシチュエーションでは喜ばれるのだろうけど、地球温暖化の事を考えると微妙だな、と思う。
僕は辿りついたベンチに腰を下ろす。ちょうど他の木の影になっていて、本を読むにはもってこいの場所だ。
僕は少しくたびれてきた鞄から本を取り出すと、ゆっくりとその表紙を開いて読み始めた。

図書館の隅にひっそりと置いてあった詩集。それ程古い本ではないのに、人に読まれることもなく、いつも誰かを待っているように同じところに置かれていた。
話題になった本でもなく、作者は有名な作家でもない。しかも普段はミステリー小説を愛読している僕が、何故その本を手に取ったのか、ともし聞かれれば何だか返答に困ってしまうけれど、やはり雰囲気だろうか。表紙に飾られた1輪の花が、どことなく彼女に似ていた。
その詩集は一言か二言の一行詩が中心で、どのページにも大きく写真が載せられていた。花や空、都市のビル群、小高い丘の写真に小さく、時に大きく言葉がはめ込まれていた。
そういえばこの丘には小学生くらいの頃、遠足で登ったことがあった。頂上から自分達の住む街を見下ろした景色が強く目に焼き付いている。小学生の頃はかなり遠かった記憶があるけれど、中学生となった今ではそう距離もない場所になり、時々そこから街を眺めて時間を過ごすこともあった。
ページを捲る音や、穏やかな風に揺れる葉の音に混じって、微かに遠くの方から人の声がした。多分、卒業生が記念撮影でもしているんだろう。そう、頭の隅で思いながら僕は小さく息をついた。 視界の端でサクラの花びらがふわりと風に舞った。

ふいに人の気配がした気がして、僕は顔を上げた。少し周りを見渡してみる。。
目の行った先―中庭の中央には、一際大きなサクラの巨木が植えられていた。植えられていたというと語弊があるのかもしれない。本当かどうかは知らないが随分昔からあったサクラの木を中心にこの学校が建てられたのだそうだ。
そのサクラの木の下に彼女が立っていた。
じっとサクラの木を見上げている。樹齢百数十年とも言われるこのサクラを。
首が痛くならないのかと思いながらも、声をかける気にはなれなかった。しつこいけれど、そういう『雰囲気』だった。
風に待って落ちていく花びらと、流れる長い黒髪。いつしか僕は膝の上の詩集も忘れて、彼女に見とれていた。
サクラを見上げて暫くすると、彼女は満足したかのようにそこを立ち去ろうとした―が、そちらを見ていた僕と目が合ってた。
しまった。そんなに真剣に見ているつもりではなかったのに、目をそらす暇さえなかった。
僕に気付いた彼女は、一瞬驚いたかのように目を見開いたけれど、柔かく微笑むとこちらに近づいてきた。
「いつから居たの?」
台詞と共に少し首を傾げてみせると、ポニーテールもふわりと揺れた。
「…あ、朝倉さんが来る前から」
やましいことなどないはずなのに、僕はどもってしまった。そんな僕の様子がおかしかったのか、彼女―朝倉さんは軽く苦笑した。
「居ちゃいけなかった?」
「ん……別に」
そう言うと、またあのサクラの方を見た。彼女がさっき見上げていた場所からは離れているというのに、まだあのサクラは大きく中庭に聳えている。
僕もその巨木を見上げた。花弁を散らしながら、この木はどれだけの春を眺めてきたのだろうか、と考えながら。
二人が黙り込んだ中庭では、風に詩集のページがめくられる微かな音が聞こえていた。

「…ねぇ」
口火を切ったのは朝倉さんの方だった。
「ん?」
「何、読んでるの?」
サクラを見上げたままの彼女の表情は読めない。
僕は何だか焦ってしまう。サクラのことしか頭になく、ついさっきまで読んでいた詩集のことすら忘れかけていたからだ。
「『追憶』って詩集だけど…」
「どんな本?」
「…作者に縁のある土地の写真と詩が載せられてるみたいだね」
間髪入れずに尋ねてくる朝倉さんに、帯を見ながら答える。
ということはあの丘も何か作者と関係があるのか。本を手に取ったのはかなり前のはずだったのに、今更そんなことに気付く。
「へぇ……ちょっと読んでみてよ」
相変わらず表情の読めないまま彼女は言った。
「え…?」
「いいから」
「えーっと…」
朝倉さんの有無を言わさぬ言葉に、僕は今開いていたページの詩からゆっくりと読み始めた。

雲一つない青空の写真に添えられた、生きることへの喜び。
小さな花の写真に添えられた、大切な誰かへの想い。
夕日に光る灯台の写真に添えられた、遠くの人を想うことの切なさ。

改めて読んでみると、ひとつひとつの言葉が心へと染み込んでくるような錯覚を覚えた。
大して大きな声で読んでいるわけじゃないのに、やけに僕の声は中庭に響いて。
じんわりと暖かな、けれど何かを渇望するような想いが、僕の心を満たしていく。

「…『空を飛べる気がした』」
あの丘の写真だ。街を見下ろすようなアングルに、大きく広げられた両手。魚眼レンズで撮影された風景は、まるでビー玉からさかさまに世界を覗き込んだよう。
ここで僕は、彼女をチラリと盗み見た。彼女はまだ、僕に背を向けたままサクラの木を見上げていた。
「どうしたの? それで終わり?」
僕が続きを読まないのに気づいて彼女が聞いてきた。
「え…いや、まだあるけど」
「じゃあ、読んで?」
はいはい、と軽く返事をした後、僕は再び詩集へと視線を下ろした。
いくつも詩を朗読していると、とうとう最後の詩となった。ページいっぱいに一面の花畑の写真が載せられている。それに添えられた詩は―
「…『もし君とまたここに来た時は』」
その先はない。ありがちだが、読む人によって続く言葉が変わる、という作者の意図なのだろう。
最後の詩を読んだ後は、僕も彼女も余韻に浸るように黙っていた。

「有り難う」
暫くの沈黙の後、彼女が言った。もう彼女はサクラではなく僕の方を向いていた。その頬には涙の跡が残っていた。
…そう。だからきっと彼女はサクラを見上げていたのだ。涙を目から零さないように。
「有り難う」
もう一度彼女は言った。
「あ、いや…こちらこそ有り難う」
どう返せばいいか分からず、僕は咄嗟にちぐはぐな返答をしてしまった。その言葉に彼女はくすりと笑うと、「じゃあ、また明日」と手を振って中庭を出て行った。
僕も暫くサクラを見上げた後、詩集を元通りに仕舞い、中庭を後にした。

あの後、彼女は何もなかったかのように僅かに残った三学期を、中学三年生の一年を過ごした。
あの日以降彼女と喋った記憶はない。
そんな僕に彼女と先輩のことも、中庭に独りいた理由も、あの涙の意味も、確かめる術なんてあるはずはなかった。
そのくせあの春の昼下がりを思い出すと、いつだってあの出来事は全てサクラが見せた幻であったような気がした。
僕の中ではあの時間は心に残っていたけれど、同時に酷く曖昧で朧げだったから。
そんな出来事から丁度一年後の春、僕らもあの満開のサクラに見送られて、中学を卒業した―。





キキイィィ! 夕暮れの街に自転車のブレーキ音が響いた。こんな昔のことを思い出しながらぼーっと運転していた所為だ。曲がり角から出てきた女の子に気付けなかった。
今日は夕焼けが綺麗だから、と少し足を延ばしてあの丘へ登ってみようと思っていたのに、これは幸先が悪い。残念だけど、今日はやめておこうか。
「すみません、よそ見をしていて…怪我、ありませんか?」
僕は慌てて自転車を降りて、ぶつかりそうになった制服姿の女の子に声をかけた。その子はぶつかりそうになった衝撃で鞄の中身を、盛大にぶちまけていたのだ。
謝りながら彼女の荷物を拾い集めていく。
「いえ、大丈夫です…。…こちらこそ飛び出してしまってごめんなさい」
随分と驚いたような顔をしていたが、言葉通り怪我はないようだった。その様子にほっとしつつ、教科書類やバインダー、ペンケースを拾って彼女に渡す。
他に落ちた物はないかと周りを見渡すと―あった。僕はそれも拾って彼女に手渡した。
「本当にすみません…」
「有り難うございます、大丈夫ですよ」
と言って、彼女はさっき手渡した本を大事そうに撫でた。その本はあの詩集だった。
それを頭で分かる前に、僕は無意識に口を開いていた。
「あの、その詩集って…」

満開のサクラ。揺れる長い髪。泡のように消えてしまったあの、春の日。

「あ、これですか? これは二年前に―」
と、言いかけた彼女。その時初めて僕と目が合ったのだ。彼女は一瞬驚いたかのように目を見開いたけれど、
「大切な人に読んで貰った詩集なんです」
と、柔かく微笑んだ。

―やっぱり、今日はあの丘を登ろう。
あの春の小さくて、だけどいつだって忘れなかったあの出来事を二人で確かるために。






サイト改装初の作品はハルノウタです。
これは私が初めて書いた短編であり、風見鶏にお題を出して貰った思い出深い短編です。
今回、改装に伴う加筆/修正では、話の大筋は変わっていないものの、多くの加筆と修正を加えました。
これでもまだ拙い文章で、上手く人に伝わるか自身がありませんが、この作品を読んで下さった方に、何か感じて貰えればと思います。
お粗末様でした。
加筆修正:2010/05/29 (C)香山湊